スクリーンは文字で立てたものではない
真我、真の自己、純粋意識などと呼ばれるもの。
それは我である故に自明なもの。
上とか下とかはなく、
たとえ釈尊であろうとも、
否、自分ですら、
過去の記憶の登場人物であって、
それら消えゆく影絵を成り立たせているのは、
スクリーンなる存在ではないだろうか。
誰も居ない時こそ、白光の真我であるなら、
誰かと真我について議論するのは、
自分が居るのであって、
二元性なる思考という、
雲としての"真我"である。
一元性なる真我は、真我であって、
そこに自分は居なかったのである。
記述などで、文字の背後にある"スクリーン"を指し示せたとして、何か意味があるだろうか?
瞑想と呼ばれる、
瞑想者なきスクリーンなる真我太陽に、
指す指、文字は立たないはずである。