気づいていない他人に「気づき」を言う。
それでも、気づいてないという事さえ含む
お互いに絶対的気づきなのではないか。
サムシング・グレートという。
卑小さなくして偉大さはない。
それは、絶対的分からなさなのであって、
それすら分かり得た個人なき無限なのであろう。
不生の真我という。
たとえ、
生まれた"自・他"があると思って語ろうとも、
絶対的真我が在るだけなのだろう。
個人的キャラクターが為し得ているのではなく、
絶対的スクリーンが在るのであって、
思考という物質の形も、
氷が氣化した水蒸氣のごとく、
見えないけど在る、不滅の生命が主体なのだろう。