言祝がれている
『六根清浄大祓』という祝詞があります。
最初に、人は神の御分霊であると、分かりようのない思考の限界を使って指し示されています。
言葉そのものでないので、
この"真実"を自分が使って、他人と争うものではなく、
他人も御分霊、つまり神の似姿、独り子だからこそ、
不浄を見て不浄を見ず
ということが元々であるのが明らかであり、
初めから鎮まっている証拠が御分霊なのだと思われます。
外で不快な不浄なことがあると我慢するというのは、
どこまでも他人が悪さしていると、自分に成り下がっています。
俗語で、
「何様のつもり?」
「私を誰だと思っているの?」
など、こうした言葉通りでなくとも、似たような分離した心の態度というものが潜んでいたりしますが、
たとえ、そのような不浄を思っていたとしても、
それら時空なる影絵を越えた真我は、行為者ではないことになります。
不快なことは、あなたであると、
どこまでも責任を追及する姿を
反響させてゆくのではなく、
Who Cares?
誰が気にしているの?
と言うと、
時間の反映なるマジックミラーの仮面を越えて、
一なる意識に向かっての戯言は静まるものと思います。
もちろんこれらも戯言なのでありましょうが。
誰も気になんかしておらず、
分離した不浄なる行為者といった心の影絵がどうなるか時間結果を求めない
いまここで在ることに安んずる祝詞に思います。