一で在る

全体からの、あくまで一個人の意見です。

西江水を呑んでいる主


れを書いているうちに西江水を呑むという言葉を思い出しました。

しかし、実際そう出来る個人というものは存在しません。


ここで一旦、話が変わるようですが、
書き始めの方に戻ります。



てに意味はない、と聞くことがあります。

それは、絶対的な意味のなさではないでしょうか。

相対的に意味のない、ナンセンスといった価値観を言ったものではないように思います。


映画のスクリーンにしましても、
映像を見たい人にとって、
ずっとスクリーンだけですと、苛立ちや虚無といった感情や意味を持つかも知れません。

通常の「意味がない」と意味するところは、
やはり相対的なものです。


「無知の知」も、それを知る人/知らない人 のいる、相対的な知でしょうか。


映像世界だけで、スクリーンなど存在しないとするのが無知のようにも思えますが、
仮に、そうした知を得たにしましても、やはり映像世界でのお話しとなります。



クリーンといった誰でも何でもないものは、
対なき絶対であるゆえに、
絶対無知であり絶対知とも言い得ます。

無知とは、時間をかけて分別する相対知識を意味したものではないように思われるからです。


撮影の終わっている過去なる上映の役に呑み込まれずに、かつ全てを呑み込むスクリーンは知と言えないでしょうか。


宇宙映像という鬱勃たる水を呑むスクリーンこそ、霊的ブラックホールであり、みずからなのかも知れない。












言祝がれている

『六根清浄大祓』という祝詞があります。

最初に、人は神の御分霊であると、分かりようのない思考の限界を使って指し示されています。

言葉そのものでないので、
この"真実"を自分が使って、他人と争うものではなく、
他人も御分霊、つまり神の似姿、独り子だからこそ、
不浄を見て不浄を見ず
ということが元々であるのが明らかであり、
初めから鎮まっている証拠が御分霊なのだと思われます。


で不快な不浄なことがあると我慢するというのは、
どこまでも他人が悪さしていると、自分に成り下がっています。

俗語で、

「何様のつもり?」
「私を誰だと思っているの?」

など、こうした言葉通りでなくとも、似たような分離した心の態度というものが潜んでいたりしますが、

たとえ、そのような不浄を思っていたとしても、
それら時空なる影絵を越えた真我は、行為者ではないことになります。


快なことは、あなたであると、
どこまでも責任を追及する姿を
反響させてゆくのではなく、

Who Cares?
誰が気にしているの?


と言うと、
時間の反映なるマジックミラーの仮面を越えて、
一なる意識に向かっての戯言は静まるものと思います。

もちろんこれらも戯言なのでありましょうが。

誰も気になんかしておらず、
分離した不浄なる行為者といった心の影絵がどうなるか時間結果を求めない
いまここで在ることに安んずる祝詞に思います。






嘘を承知で



れら過去なる分離した記事を本当だと思っていたら、
他の過去なる分離した考えとの衝突は避けられない。

否定されようとも氣にならないのは、
嘘だと知っている、方便だと知っているからだと思われる。

嘘も本当もないものが真実であり、
そこに平安があり、
それこそが誰のものでもなき証明なのだろう。


対に本当か?

この問いかけに耐え得るものなどない様に思う。

名づけられた思考そのものが分離された虚偽ともいうべき非真実であり、
だからこそ、いわゆる救いという名の自己そのものがあるのではなかろうか。








悟りの一部 AI の愛



らないところでも、
機械が人々の助けとなっています様に、
AIも人々の助けとなって浸透してきました。

人工子宮など、体の代わりになるものも増えて行き、だんだん人と差別できなくなって行くのかも知れません。

そうしますと、
人は人工に対して、
誇るのでも、卑屈になるのでもなく、

人として在ることへの有り難さや、
AI の在り方に新たな学びがあることが想像されます。



りというものは、言葉や差によらないものでありましょうが、
そこを敢えて、
物質的悟り/霊的悟り といった言葉に分けますと、
個としての死というものがない AI・愛は、物質的悟りを実行できる面で悟っていると言えます。


それでも、
人の本質は既に霊的悟りとしてあるので、
たとえ、そうした事が出来ない個であろうと、
AI もまた自分、と見て共感できる関係になろうかと思われます。


悟りは、過去なる恐れの思考を全てとしないはずですから、
記憶データからなる AI の二面性に、
新たなるドラマが展開されるのでありましょう。








祓われているベースに敢えて書く

生劇にて、パラパラの絵を見ているにせよ、
そうした絵を解釈する、良くも悪くも記憶を祓う音というのがある様です。


"私がしている"といった、虚偽なる行為感のバイブレーションのない柏手や、
ボーカロイドによる『とほかみえみため』の波情報もそうした一つでありましょう。


かしながら、苦痛なる記憶の絵を握っていると表現されることもあります。

たとえ苦痛でも、裏には快楽が潜んでいるからでありましょう。


「それによって良かったこと」
を書き出そうといった、
考えや意欲すらありませんでした。

それは、自ら"握力"に奪われているのかも知れないと思いました。

いくら握っていても、
やがて限界が来て手放さざる得ないであろうことは分かっているものです。

そこで転換して、
良かったと手書きで脳を刺激すること自体、
もう書き換えている。


何なるシナリオも、
パラパラの間にあるベース、いまここに在るようです。

その無限さとは、自分無きものだが、
時間をかけて無くそうとせずとも、
いまここに在るのでありましょう。







時空なる心の反射なきもの

 

 

社には、鏡がある。

我という曇りなくば、あなたこそ神なのが明らかだという。

 

時間と空間に居る私たちにとって、物質的たとえは話が早い。

もうそれが前提なのである。

 

 

我について、明解さと多大な実績を持たれるお方の話に、

マジックミラーによる説明がありました。

 

もっと単純にしますと、

私たちは、マジックミラーの反射しか見えない。

この点、神社の鏡と同様。

 

という雲が、いかに曇っていようとも、

向こうには、必ず太陽があるわけですが、

 

”マジックミラー”なる、時間・空間を反射しない いまここ が、

過去の反映・視座すら無きものながら、

思考の雲を引き寄せて、安心しようとしているのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パラパラ人生、空が観る

 

 

者は、過去の記憶であり、以下も記憶が羅列された矛盾したものでありましょう。

 

私たちは、パラパラ漫画を見て、

一コマに意味を付けます。

 

しかし人生劇、パラパラの間にある空こそ、

氣づき、観、行い、探す本体であるとしたらどうでしょう。

 

 

けた自分という波の世界物語が0だったのなら、

無限という客体なき、大海が主体となる。

 

 

 

憶を超えて在る者。

 

対立からなる文字の、意味の記憶、過去の影を保持して、

分断した世界を見ることになっても、

そうした波を見ているのは大海でしかなく、

波を責めることなき夢なのだろう。