祓われているベースに敢えて書く
人生劇にて、パラパラの絵を見ているにせよ、
そうした絵を解釈する、良くも悪くも記憶を祓う音というのがある様です。
"私がしている"といった、虚偽なる行為感のバイブレーションのない柏手や、
ボーカロイドによる『とほかみえみため』の波情報もそうした一つでありましょう。
しかしながら、苦痛なる記憶の絵を握っていると表現されることもあります。
たとえ苦痛でも、裏には快楽が潜んでいるからでありましょう。
「それによって良かったこと」
を書き出そうといった、
考えや意欲すらありませんでした。
それは、自ら"握力"に奪われているのかも知れないと思いました。
いくら握っていても、
やがて限界が来て手放さざる得ないであろうことは分かっているものです。
そこで転換して、
良かったと手書きで脳を刺激すること自体、
もう書き換えている。
如何なるシナリオも、
パラパラの間にあるベース、いまここに在るようです。
その無限さとは、自分無きものだが、
時間をかけて無くそうとせずとも、
いまここに在るのでありましょう。