一で在る

全体からの、あくまで一個人の意見です。

西江水を呑んでいる主


れを書いているうちに西江水を呑むという言葉を思い出しました。

しかし、実際そう出来る個人というものは存在しません。


ここで一旦、話が変わるようですが、
書き始めの方に戻ります。



てに意味はない、と聞くことがあります。

それは、絶対的な意味のなさではないでしょうか。

相対的に意味のない、ナンセンスといった価値観を言ったものではないように思います。


映画のスクリーンにしましても、
映像を見たい人にとって、
ずっとスクリーンだけですと、苛立ちや虚無といった感情や意味を持つかも知れません。

通常の「意味がない」と意味するところは、
やはり相対的なものです。


「無知の知」も、それを知る人/知らない人 のいる、相対的な知でしょうか。


映像世界だけで、スクリーンなど存在しないとするのが無知のようにも思えますが、
仮に、そうした知を得たにしましても、やはり映像世界でのお話しとなります。



クリーンといった誰でも何でもないものは、
対なき絶対であるゆえに、
絶対無知であり絶対知とも言い得ます。

無知とは、時間をかけて分別する相対知識を意味したものではないように思われるからです。


撮影の終わっている過去なる上映の役に呑み込まれずに、かつ全てを呑み込むスクリーンは知と言えないでしょうか。


宇宙映像という鬱勃たる水を呑むスクリーンこそ、霊的ブラックホールであり、みずからなのかも知れない。