一で在る

全体からの、あくまで一個人の意見です。

分離なく在る大生命


づいていない他人に「気づき」を言う。


それでも、気づいてないという事さえ含む
お互いに絶対的気づきなのではないか。



サムシング・グレートという。


卑小さなくして偉大さはない。

それは、絶対的分からなさなのであって、
それすら分かり得た個人なき無限なのであろう。



不生の真我という。


たとえ、
生まれた"自・他"があると思って語ろうとも、
絶対的真我が在るだけなのだろう。


個人的キャラクターが為し得ているのではなく、
絶対的スクリーンが在るのであって、

思考という物質の形も、
氷が氣化した水蒸氣のごとく、
見えないけど在る、不滅の生命が主体なのだろう。










もし地球を一目眺めれたのなら   


、自動的に、何か・サムシング、ないかなと対象を文字や思考で探しているとします。

しかしながら、
その探している者こそが探されているもの・サムシング・グレートなのだといわれる。


自らが余りに偉大すぎて認識できないでいるので、他なのであろうといった分離を前提に、
分断していく思考にて、はっきりさせたようでいて、真相を更に曇らせている。


以下に述べることですらも、そういった体のものなのだろう。


こうした寸劇を繰り広げているのは、脳内の世界ではあろうが、

グッと引いて、地球を一目眺めたとしたら、
逆に愛しいものなのかも知れない。



スクリーンは文字で立てたものではない


我、真の自己、純粋意識などと呼ばれるもの。


それは我である故に自明なもの。

上とか下とかはなく、
たとえ釈尊であろうとも、
否、自分ですら、
過去の記憶の登場人物であって、
それら消えゆく影絵を成り立たせているのは、
スクリーンなる存在ではないだろうか。


も居ない時こそ、白光の真我であるなら、

誰かと真我について議論するのは、
自分が居るのであって、

二元性なる思考という、
雲としての"真我"である。


一元性なる真我は、真我であって、
そこに自分は居なかったのである。


述などで、文字の背後にある"スクリーン"を指し示せたとして、何か意味があるだろうか?


瞑想と呼ばれる、
瞑想者なきスクリーンなる真我太陽に、
指す指、文字は立たないはずである。








真我の説明という演劇

 

 

真我の説明が奉仕になるというので、新たなブログサイトで始めてみました。

 

よく喩えられますのが、映画のスクリーンというものです。

 

このブログと筆者自体もまた、

映画のワンシーン、

登場人物にあたるため、

それらが映画内にてスクリーンを説明するという、

ある面、白ける一つの映画となっているのだろうと思われます。

 

しかしながら、

人生舞台での明転にて、心の影絵ゲームを終わらせたいとの思いも筆者に通りがかっております。